厳選作家
1989/01/01
Libro Port Publishing, Japan
Toshiharu Ito
Helnwein, Biography
年譜 1948 *ウィーンに生まれる。 1965-69 *高等グラフィック教育実験学校に学ぶ。 *ベネチアからウィーンまで断食不眠徒歩行。 -1966 *友人たちの小さな集まりで、はじめてアクション(パフォーマンス)を起こす。自ら、顔や手を何ケ所も剃刀・彫刻刀・スキーのエッジで傷つける。 *はじめての包帯拘束パフォーマンス。 1969 *卒業試験に合格せず。公式の理由は、体育が不可だったから。 1969-1973 *ウィーン美術アカデミー絵画科で学ぶ。 *傷つき、虐待された子供たちを描く一連のハイパーレアリズムの絵画の連作を製作。 *様々な形態のマイナー芸術に精力的に参画。漫画・広告・映画。そして、その経験を作品に反映させる(水彩:「不純な子供」、「拷問」、「いやしい子供」。最初の油彩画:「ママ、ここにいるの? 総統、ありがとう!」)。 1970 *マスタースクール賞を受賞。 *包帯と外科医療道具をともなった、写真による最初の自画像。 *子供たちと一緒のフォト・アクション。 *本当にひどい絵を描く試み。水彩画:「特別」を描く。 *ウィーンのナイト画廊のアトリウムで最初の個展。アクション:「アカデミーは燃える」。ふたりの同期の友人たちと美術アカデミーに対する反逆を行なう。このアクションの動機は教授会が学生の代表が入学試験の施行に参加することを拒否したことに起因する。教授会は軟禁され、物理的にも大きな被害を被った。ヘルンバインとその仲間は退学処分をうけた。科学芸術相はこの事件を政治的な行動として表明した。捜査が行なわれ公判が開かれた。
1971
*カーディナル(枢機卿)ケーニヒ(王)賞受賞。
*ウィーンの公共の場ではじめてのアクション — 路上およびコーヒー店などで。
*ウィーンの芸術家の家での展覧会で何者かがヘルンバインの絵の上にナチのスローガンであった『頽廃美術』という落書きをする。
*ウィーン近郊のメドリングのD画廊で市長が展覧会のオープニングに際して、治安警察を使って、ヘルンバインの作品を押収させる。
*複製と大量生産を研究し、ヘルンバインはオフセット印刷を独立した完璧な芸術のメディアだと宣言する。彼にとってオリジナルは過渡的な作品形態にすぎない。これを彼が気取ったゴミと名づける。
*アクション:「ヘルンバインのための血」、ウィーン、ドマイヤ通り画廊。
*報道会館画廊での展覧会は3日で閉幕。原因は事務当局の激しい抗議とストライキの強迫から。
*ペン・色鉛筆・鉛筆による絵:「喜びと悲しみ」、「小人はそのとき喜びはしゃぐ」、「名付親の贈り物」。
1972
*一連のセルフポートレートと子供たちの写真にひっかき傷とそぎ傷をつけて輝く聖痕を与える。
1973
*最初の銅版画:「私のこどもたちはトルコ人を谷に突き落とした」。
*多数のペン画と子供を使ったアクション。
*オーストリアTV番組:「参加する芸術?」、ディレクター=E.クロイス、アクション:「サンドラ」。シュトゥーベンスタイ上の画廊で。
*政治文化雑誌『プロフィル』創刊号「ウィーンの自殺特集」。激しい公衆の反発を受ける。予約とり消しがあいつぐ。
1974
*テオドル・ケルナー賞
*アクション:「白い子供たち」、ウィーン一番の目抜き通りケルントナー通りの歩行者天国で15人の包装をした子供達と。
*ドイツZDFの番組:「ヘルンバインの視覚テスト」、編集=ハインツ・ディークマン。
*芸術とコミュニケーションのセンター開設。
*展示会・演奏会・アクション・朗読会を開催。
1975
*オーストリアの画廊主クリンツィンガーがヘルンバインに物故者であるパフォーマー、ルドルフ・シュバルツコグラーのカタログを贈る。ヘルンバインにとっては初耳だった。ヘルンバインは彼自身とシュバルツコグラーとの形態的な類似と平行現象に驚いた。彼はウィーン派のアクションの思想について研究を始めた。一連のペン画を、校正を主題として。「微笑のための金属製の唇」、「校正の留金」、「ワトラスの樽の奇跡」、「助手アスマン」、「あごのない男に救いを」。
1976
*アクション:「常時準備完了」、ウィーン、ナッシュ市場広場。
*アクション:「1000年」、クラーゲンフルト。
1977
*アメリカに7ヶ月滞在。カディンスキーとウォルト・ディズニーの作品を集中的に研究。
1979
*ウィーン/アルベルティナ宮でペン画の個展。国際児童年にむけたアクション。
*R.ヘブフリンガーとE.レニエがおやしや小さなおもちゃにヘルンバインの小さな絵をつけてチューリッヒの歩道で配る。
*公開状つきの絵、毒の入った食器の前に頭をよこたえる死んだ子供の絵「生きるに値しない生」でオーストラリアの法廷心理療法家の第一人者、かつて安楽死医だったグロス博士に抗議した。というのはグロスは40年代、百人もの子供たちを毒殺したことを認め、この殺し方を人道的だと呼んだからである。グロス氏は法に訴える方法をとらなかった。彼の言葉によると芸術家などそれに値しないから。
*ヘルンバインは芸術がシリアスなものと娯楽的なものとに分かたれつつあるという現象に関心を持つようになった。彼はこれを20世紀美術のアパルトヘイト状況だとみる。「わたしは造形芸術の世界のネルソン・マンデラだ」。
1981
*オーストリアのフットボールのスター、ハンス・クランクルの肖像を含むトリビアルな英雄と神話のシリーズに着手しはじめる。「国家の爆撃機」に続いて、「ピョートル大帝」と「ニキ・ラウダ」の肖像を描いた(へルンバインがラウダを描く。NDRフィルム。製作ビクトリア・フォン・フミング)。画商と批評家はこれらの作品を完全な脱線だと考え拒絶した。ヘルンバインはこの時期からだんだんに既成の画壇から離れ孤立していった。オーストリアの劇作家ボルフガング・バウアーは、これらの作品をさして『永遠のための絵画』と呼んだ。『ノイエ・ツァイト』紙の論客はこれに反論して、「永遠がこんなあつかましいものは避けますように」と書いた。ヘルンバインの描いたジェームズ・ディーンの神格化された姿にインスピレーションを得て、ボルフガング・バウアーは一篇のバラードを書いた。『ヘルンバインに捧げる歌・壊れた夢の大通り』。作家H.C.アルトマンに出会い、友人となる。H.C.アルトマン・ポト・シュトラウス、ボルフガング・バウアー、バーバラ・フリシュムートの文章がつけられた最初のヘルンバイン論集が出版される。
1982
*ロンドンでローリング・ストーンズに出会う。ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ロン・ウッド、そしてビル・ワイマンがヘルンバインのモデルとなる。ヘルンバインのケネディの肖像画が『タイム』誌の大統領の死後20周年特集号の表紙を飾った。
*ハンブルグのデザイン学校がヘルンバインに教授になるよう依頼した。ヘルンバインは拒絶した。
*雑誌『ツァイト』がヘルンバインを表紙で特集。「わたしは世界で一番速く水彩画を描ける画家である」。
*叫びをあげ目がみえない姿のセルフポートレートをスコーピオンズのLP「ブラックアウト」のジャケットに使う。
*ピーター・ツァデックと初めて会う。
1983
*ミュンヘン市立美術館で大規模な個展。オープニングのパフォーマンスとして、ロックグループのトリオ「ダダダ」とH.C.アルトマンが参加。展覧会には10万人の観客がかけつけた。(観覧者の人数では美術館の記録を更新した。)アンディ・ウォーホルがニューヨークのカメラ仲間のためにヘルンバインの前にモデルとしてたつことになった。
*ポスター「恐怖の秤」。
*「ドナウを救え」オーストリアの美術収集家でパトロンのハンス・ディハントが資金を提供して、大きなポスターをつくり、オーストリア中でヨーロッパ最後の水辺の森をオーストリア・エネルギー会社が破壊するのを防ぐキャンペーンを展開した。
*西ドイツとオーストリアのTVが、テレビ映画「ヘルンバイン」をプロデュース。製作=ピーター・ハイェク。ラジオ番組『お茶の時間』に登場、口汚く原爆の発明者サム.T.コーエンについて語り、さらに美術アカデミーにおける教育システムについて批評し、学校生徒の間で自殺率が高いことに警告を発し、若者たちに学校を離脱することを勧めた。オーストリア・ラジオの製作者はこの番組を破棄することにした。
*ヘルンバインはモハメッド・アリにロサンジェルスで会った。アリはヘルンバインの映画に出演した。ベルリンの雑誌『チップ』の読者はヘルンバインを1983年度の芸術家に選んだ。
*彼のセルフポートレートがダルムタットの芸術会館で開かれた『首と顔』点に出品された。
1984
*ピーター・ハイェクの映画『ヘルンバイン』がベルリン芸術祭のオーストリア週間の皮切りに上映された。ウィーン近代美術館での『1984年・・・オーエルと現代』展にセルフポートレートのコラージュが出品された。ソビエト外務省当局はヘルンバインが雑誌『タイム』の表紙に描いたグロムイコ像を手に入れようと試みた。しかし、この作品は既にワシントンのスミソニアン協会のコレクションに加わっていた。
*ヘルンバインのセルフポートレートがイタリアの雑誌『レスプレッソ』の表紙に登場。
*ヘルンバインは伝説のウォルト・ティズニーのもとの漫画家、カール・バーク(ドナルドダックの創造者)に会う。カール・バークはヘルンバインを評して、「世界で最も素晴らしい芸術家」という。
*サラエボ1984冬季オリンピックにヘンリー・ムーア、ジェームズ・ローゼンキスト、ミモ・バラディノ、サイ・トゥンブリ、アンディ・ウォーホルなどとともに芸術家として参加。
*1984年以来、恒常的にピーター・ザデクと共同で仕事をする。
*ミュンヘン市立美術館でクリント・イーストウッドといっしょにセッションを行なう。(この肖像はアメリカのカルトマガジン『ローリングストーン』誌の表紙につかわれた。)
1985
*ウィーン、アルベルティナ宮で個展。ウォルター・コシャッキーとピーター・ゴルセンの文章の載ったカタログ。西ドイツに引っ越し、ケルンの近くに住所と仕事場を移す。
*彼の作品に大きな変化が起こる。大きなフォーマットの複合的な絵(二幅対、三幅対、多幅対)を始める。これらは、巨大な写真、抽象、身体像、単色、アクリル、油彩、そしてC.D.フリードリヒの絵や戦争の実写フィルムの複製を合成したもので、「絵の通り」(ピーター・ゴルセン)を形づくった。ヘルンバインの頭は次の様なタブーとなっているテーマに直面している。「劣等民族」、「頽廃芸術」、「生きるに値しない生」、「ファシズム」。
*ドイツのテレビ番組『ヘルンバイン』はアドルフ・グリム賞を受賞。同じ年にエドゥアード・ライン賞も受賞し、そのカメラワークの素晴らしさからウィーン市の“金の幹部”賞も得た。
*ルドルフ・ハウズナーはヘルンバインを彼の後継としてウィーン美術アカデミー絵画部門マスターコース教授として推挙した。教授会はこの提案に憤激して満場一致で否決した。(総長は「私の死体の上を越えていきたまえ」)。
*ニューヨーク近代美術館は映画「マルレーネ」(監督=マクシミリアン・シェル)のアカデミー賞受賞を機会に、ヘルンバインのマルレーネ・ディートリッヒの肖像を展示。
1986
*一連の巨大画面の変容する自画像のシリーズを製作。目をフォークで覆った、絶叫する自画像から発展したもの。
*自らをなにものかに凝した写真による自己演出のシリーズを開始。死んだヒーロー、SS隊員、殉教者、受難者、子供の味方、そしてミイラ。「劣等者の神」、「アバンギャルドの静かな輝き」、「神に祈れ! われわれは既に近い」、「旅の涙」、「熟練者の死」、「パルチザンの愛」、「愛の電撃戦」、「秘密のエリート」、「わたしのなかの中流階級」、「それはロックンロールにすぎない」、「心の女奴隷」。
*コブレンツの中央ライン美術館とベルリンの自由民衆舞台で個展、「暴力、性、古典」をテーマとしたパネルディスカッション。パネラー=ハイナー・ミュラー、ハンス・ノイエンフェルス、エルンスト・ボルネマン。
1987
*巨大で分割された複合画面の絵と写真の仕事に平行して、彼は同時に色鉛筆のデッサンを描き始めた。「少年とネグロ」、「科学の勝利」、「ヴィ−ナスの誕生後」、「嘘の祈り」、「悪魔のバイオリン」。
*デューレンのレオポルド・フーシュ美術館、ミュンヘンのシュトゥック荘、スラトスブールの近代美術館で個展。
*ブレーメンのクンストハッレでインスタレイションおよび展示オペラ「人間以下」。
1988
*ケルン/ルドヴィッヒ美術館。大インスタレイション。「11月9日の夜」は高さ4m、長さ100mの絵の街路で、ゴットフリート・ヘルンバイン作。題材は「水晶の夜」、1938年11月9日のユダヤ人大虐殺のはじまりを記念したもの。彼は等身大以上の大きさの子供の顔の終わることのない列(まるで強制収容所への選別の列のような列)を見学者たちに出会わせた。このインスタレイションは10万人が見た。夜の展示に際して、だれかが絵に描かれた頭の首のところを切り裂いた。
*モノグラフィー『ヘルンバイン 人間以下』。1979年から1987までの自画像。プラウス出版社、ハイナー・ミュラーとピーター・ゴルセン 著。
*舞台芸術、衣装、仮面『マクベス』のために。ハイデルベルグ市立劇場のハンス・クレニスクの演出。この劇は大衆と批評家に歓迎され、ベルリン演劇祭、ベルグラード演劇祭、エディンバラ演劇祭に招待される。
*ヘルンバインは現在大画面のモノクロ/青緑、リアルな油彩画、アクリル画、モノクロの抽象画を交替に製作している。それに加えて写真という媒体で精力的に活躍している。
*国会の緑の党の主催で、ゲオルク・マイスタマンとゴットフリート・ヘルンバインの頽廃芸術とNS芸術に関する討論が開かれた。ヘルンバインはナチ芸術を悪魔のしわざという見方から解き放ち、倉庫にしまいこまれているそれらの作品を公開すべきであると語った。
*ピーター・デザク演出の、F.ヴェデキントの『ルル』(ハンブルグ劇場)のポスターは怒りの嵐をまきおこした。ハンブルグ市長と婦人同権同盟はその絵が女性に対して公然と敵対的であると抗議した。人間の尊厳を守るためのドイツ語圏市民連合はヘルンバインとデザクに対して、ポルノグラフィーであると告発した。この絵をめぐる論争は国境を越えて展開された。ウィーン市長ヘルムート・ツィルクはこのポスターに感激し、心からヘルンバインにあいさつをおくった。
*マイケル・ジャクソンとのフォトセッション。マイケルはずっと以前からヘルンバインの作品を知っており、賞賛していた。
*展覧会《セクション4》過去10年のポラロイド芸術展に参加。ロンドン、ヴィクトリア&アルバート美術館。ケルンのフォトキナに参加。
1989
*個展。エッセンのフォルワング美術館で。デッサンと紙上の作品。ノーマン・メーラーとハイナー・ミュラーの文章のついたカタログ。
*アルトーの芝居についてハイナー・ミュラーと共同製作。
*テレビで放映されたアートフランクフルトのヘルンバインの絵に挑発されて、ネオナチグループが見本市会場に乱入を試みる。主催者に彼らをはねつけさせることには成功。主催者の依頼により、画廊主アンゲリカ・ハルタンはこの絵を数時間壁からはずした。
*カール・オルフ作曲の『カルミナブラーナ』の舞台のための仕事。バイエルン州立オペラ(1990年ミュンヘンフェスティバルオープニング)。ソフォクレスの『オイディプス王』の舞台美術。ハイデルベルグのハンス・クレスニクの劇団の仕事。
主要な個展
1970
*ナイト画廊のアトリウム、ウィーン
1971
*カイザー通りの画廊、ニュルンベルク
*報道会館画廊、ウィーン(この展覧会は激しい抗議のために、3日後に中断された。)
*アクション「ヘルンバインのための血」、ドムマイヤー通りの画廊、ウィーン
1973
*シュトゥーベンバスタイ画廊、ウィーン
*アクション「サンドラ」、ウィーン
1974
*ヤサ美術画廊、ミュンヘン
*スペクトルム画廊、ウィーン
*アクション「白い子供たち」、ウィーンの目抜き通りケルントナー通りの歩行者天国で。
1975
*ブラントシュテッター画廊、ウィーン
1976
*ブロッホ画廊、インスブルック
*アクション「常時準備完了」、ウィーンのナッシュ市場広場
*アクション「1000年」、クラーゲンフルト
1977
*スペクトルム画廊、ウィーン
1978
*ニートリヒ画廊、シュトゥットゥガルト
*スペクトルム画廊、ウィーン
1979
*アルベルティナ宮、ウィーン
*ナヴィリオ画廊、ミラノ
*グリュンター画廊、リンツ
*スペクトルム画廊、ウィーン
*私立画廊フォオーラム、ヴェルス
1980
*シアウ画廊、アムステルダム
*ブロッホ画廊、インスブルック
*ディアゴナル画廊、シュトゥットゥガルト
1981
*ボールガートナー画廊、ワシントン
*スペクトルム画廊、ウィーン
*ブロディル画廊、ザルツブルグ
1982
*リュシアンビリネリ画廊、ビリュッセル
*アート13/82展、ワンマンショウ、バーゼル
*スペクトルム画廊、ウィーン
*フォトアート1、ケルン芸術協会、ワンマンショウ、画廊70、ベルリン
1983
*回顧展、ミュンヘン市立美術館
*ワンマンショウ、ケルン美術市場
*スペクトルム画廊、ウィーン
*シュテルン通り市立画廊、ニュルンベルク
1985
*アルベルティナ宮、ウィーン
*アート16/85展、ワンマンショウ、バーゼル
*スペクトルム画廊、ウィーン
*演劇会館、ハンブルグ
*ニューヨーク近代美術館が映画「マルレーネ」(監督マクシミリアン・シェル)のアカデミー賞受賞を機会に、ヘルンバインのマルレーネ・ディートリッヒの肖像を展示
1986
*ミッテルハルン美術館・メッテルニヒ芸術家の家、コブレンツ
*自由民衆劇場「暴力・性・古代」、ベルリン
1987
*ヴュルトル画廊、ウィーン
*シュトゥックヴィッラ素描画廊、ミュンヘン
*レオポルド・フーシェ美術館、デューレン
*近代美術館、ストラスブール
*インスタレーションと展示オペラ「人間以下」、プレーメン芸術会館
*ベッチャー通りフォーラム、写真と時間芸術美術館、ブレーメン
*素描展、ミヒァエル画廊、ブレーメン
*インスタレーションとパフォーマンス、アンゲリカ・ハルタン画廊、シュトゥットゥガルト
1988
*ルドヴィッヒ美術館のためのインスタレーション、「11月9日の夜」
*コッペルマン画廊、ケルン
*美術協会、ジーゲン
*フリートマンギネス画廊、ハイデルベルク
*「人間以下」展、ドイツアメリカ協会、チュービンゲン
*「バックステージ」展、文化センター、マインツ
*「紙上の素描と作業」展、クラウス・キーファー画廊、エッセン
1989
*「紙上の素描と作業」展、フォルクヴァン美術館、エッセン
*クラウス・キーファー画廊、エッセン
*アンゲリカ・バルタン画廊、シュトゥットゥガルト
主要なグループ展
1970
*造形芸術アカデミー展、ウィーン
*アレナ70/Ⅱ展、ウィーン
1971
*グループ ツェトゥス展、芸術家の家、ウィーン
*「対立」展、オイゲン公冬宮、ウィーン
*リアリズム展、ドマイヤ通り画廊、ウィーン
1973
*今日の肖像画展、ウィーン市中央貯金銀行、ウィーン
*アート4/75展、国際芸術見本市、バーゼル
*国際芸術市場、ドゥッセルドルフ
1974
*現実主義の諸相展、ブロッホ画廊、インスブルック
*ウィーン祝祭週間展、ブラントシュテッタ画廊、ウィーン
1976
*芸術間交流展、リヒテンシュタイン宮、ウィーン
*芸術とコミュニケーション展、芸術とコミュニケーションのためのセンター、ウィーン
*アート7/76展、国際芸術見本市、バーゼル
1978
*「芸術に何ができるか? 芸術にできることなどあるのか?」展、アルテ・フィエラ(芸術見本市)、ペルヒトルズドルフ芸術センタ− 低オーストリア地方芸術文化協会、ボローニャ78
*コミック芸術・芸術家のコミック展、バジリスク画廊、ウィーン
1979
*国際芸術市場、ウィーン79
*ヘルンバイン・サンドルフィ・トムソン展、トレッドウェル画廊、ロンドン
*芸術購入者としての国家・知られざる収集展、オーストリア応用美術博物館、ウィーン
*IKM展、国際芸術市場、ケルン
1980
*アート11/80展、国際芸術見本市、バーゼル
*ワシュアート80展、ワシントン
*アート1980シカゴ展、シカゴ
*アート・エクスポ・ウエスト展、ロスアンジェルスセンター
*シンドラ−画廊、ベルン
1981
*アート12/81展、国際芸術見本市、バーゼル
*ヴュルトレ画廊の60年、オーストリア現代美術の60年展、ヴュルトレ画廊、ウィーン
*国際グラフィックアートビエンナーレ、リュブリャナ81
*IKM展、国際芸術市場、ケルン
1982
*アート13/82展、国際芸術見本市、バーゼル
*美術愛好家ヴィクトル・マティカの収集展、ゼセッション館、ウィーン
1983
*「頭と顔」展、ダルムシュタット芸術会館
1984
*「1984年・・・オーエルと現代」展、近代美術館、ウィーン
*芸術と統合展、ウィーン市文化局、市役所、ウィーン
1987
*「戦争と平和」展、クンストハッレ美術館、ハンブルグユーロパリア
*「損なわれた世界 一 現実主義とオーストリアの現実」展、イクセル美術館、ブリュッセル地方銀行美術広場、ウィーン
1988
*「戦争と平和」展、市立美術館、ミュンヘン
*市立絵画館、モスクワ
*エルミタージュ美術館、レニングラード
*ギュンター/カロラ・パルの収集「キルヒナーからピカソまで」展、ルードヴィヒ美術館、ケルン
*ビクトリア&アルバート博物館、ロンドン
*「セレクション4」ここ10年のポラロイド芸術展、フォトキナ博物館、ケルン
*アート・コロ−ニュ「戦場」展、コッペルマン画廊
*「かつて賢かったものはいつも馬鹿」展、フルクセウム、ヴィースバーデン
1989
*アート・フランクフルト、アンゲリカ・ハルトマン画廊
*バート・ラッペナウ「美術の中の声」展
*アート・コロ−ニュ「コッペルマン画廊の10年」展
*国際ビエンナーレ、トリノ・フォトグラフィア89




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